スピリチュアルとは切っても切り離せない言葉、
「無償の愛」
(大抵、こういうカンジ。→
人(°▽°*「愛デスネ」
またはこう(笑 →
ヽ(´∀`)ノ「愛シテアゲマショウ・・・」
)
でも、私はこの言葉が
大っ嫌いだ。(←笑
「見返りを求めた時点で、それは本当の愛情でも
優しさでも親切でも無い」
→つまり、感謝が欲しいから人を助ける、てのは間違ってますよ、
ていう意味の「無償の愛」は、確かに間違いじゃーないよね
でも、今のスピリチュアル界では、
「無償の愛」と言う言葉は、呪文と化している。
ここぞという時(つまり、自分に不満が生じたとき)に限って、
「無償の愛」を持ち出さなければいけないと思っている。
なんで私が?と思ったり。
反論や、割り切れないもやっとした思いを
ぐっとこらえて飲み込み、
皆、我慢して、自分にこう言い聞かせている。
「いや、ここは無償の愛だ、無償の愛」(←大抵2回だ
そうして、何の得にもならない人の厄介事を引き受けたり、
不当な扱いに甘んじたりしている。
でもそれって、「無償」か?( ̄- ̄?
「無償」とは、「償い(つぐない)を要求しない愛」だよね。
でも、こうやって自分の口を塞ぎ、
自分をねじ伏せていることは、
「自分の本音を犠牲にしている」から「有償」では?
何か自分の中に抵抗があるのに
「いや、相手を許さなければ(やってあげなければ)」と
自分に「課した」時点で、それはもう「無償」じゃなくなってるのに。
自分の心を償いにして、自分を犠牲にしてまで、
あなたは一体、何を相手に捧げようとしているのか
もしかしたら、気の遠くなるような我慢と忍耐の果てに、
「無償の愛」の境地に辿り着くかもしれない。
(肉親の介護とかでよくありますよね)
そして、人によっては、努力しなくても、
元々そういう性格の人だって
世の中には沢山いるだろう。
でも、「無償の愛だ」と念じたその瞬間、
あなたに「義務」や「苦しさ」が生じるなら。
「何故」それが自分から湧きあがっているのかを
検証してみる絶好のチャンスだと私は思う。
だって、そこに抵抗があるってことは、
そこには解決していない何かが存在するてことだ。
それは何?
その解決していないことこそが、
自分自身や、他者との人間関係で
自分が煮詰まっている一番の大きな理由なんじゃないの?
嫌だな、と思ったり、なんで私が?て思ったり。
それって、我儘なの? 全部自分勝手なの?
そこに妥当な理由があることだってあるでしょう?
だからみんな、もやっとするんじゃないの?
「無償の愛」をやった人や、その言葉に抵抗がある人は
ほとんど、心の中に
「なんで私ばっかり(犠牲にならなきゃいけないんだ)」
て言葉があるはずだ。
でもそれを
「不満が出るのは自分の未熟さだ。自分本位の考え方だ。」
と片づけてしまう。
なぜ。
私は、人間っていう生き物は
性悪説より性善説の方を支持するけど、
でも同時に「本来は利己的なもの」だと思ってる。
自分を愛して欲しいとか、
自分の望みを叶えて欲しいとか、
ラクをしたいとか、助けて欲しいとか、
そんなものは、誰もが当たり前に持っている欲望で、
それこそが、人間の可愛らしいところじゃないの?
ちっぽけな愛すべき、愛おしい存在だっていう証じゃない?
誰かに自分の事をわかってほしい、認めて欲しい、
そんな私達の気持ちは、
この世に生まれた瞬間から
生存本能と同じように持ってるものだ。
利己的になるのは、限りある命を守って
生きていくための自己防衛反応と同じだ。
それが満たされないのを我慢し続ける必要がどこにある。
確かに世の中には、「あまりに自分本位だ」と
見ているだけでうんざりする人もいる。
でも、そんな人への嫌悪感のせいで、
自分の「そう思うのは妥当な感情」まで全否定している。
みんな極端へ走り過ぎてると思いませんか
嫌なことは嫌なんだから、仕方ないじゃない。
そんな人間として当ったり前の感情を「悪いものだ」と決めつけて、
ダメ押しに「そんな自分は我儘で利己的だから
抑えて、代わりに人に尽くしなさい」
と上から蓋をして「強制」するのはおかしいのでは?
この場合、
自分の感情と、相手に尽くす奉仕の心は、別物だ。
混ぜたらイカン。

「嫌だな」
「なんでいつも私ばっかり」
「与えてばかりはもう疲れた」
そう思うなら、何故、そう思うのか。
それを解決するには、どうしたらいいのか。
じゃぁ、何があれば満たされるのか。
それを得る為に、具体的に行動に移したことはあるのかい?
我慢の一言で片づける前にやることは山ほどあるだろうに。
消毒する前にバンドエイドを貼ったらダメって、言うじゃない。
「無償の愛」の呪文は、
自分の傷を手当てせず上から蓋をして、
中でどんなに膿んでも痛んでも
更に上からバンドエイドを強固に重ね貼りしているのと同じ。
手当をしないまま上を塗り固めたおかげで、
傷は膿む一方だ。
見ないフリ、根本解決をしない状態を重ねることで
真実は歪み、状態は悪化し、混乱する。
だったら、蓋をして化膿させるより、
最初からさっさと蓋を開けて風通しをよくした方が
痛みも小さくて治りも早いんじゃぁ?
もやっとしたものは、段々大きくなるし、
我慢をしたことは、必ず後で爆発する。
我慢で塗り固めてグラグラしている埋立地の上に
どんな頑健なお城を築いたって
崩壊するのは目に見えている。
だったら最初から、基礎工事をしっかりやる方が建設的じゃない?
大体さぁ~~~ 何かに苦しんでるからこそみんな、
スピに辿り着くんでしょーーーーー?
それを解決する前に
なんで別の強制労働を自分に課してんの?
目を覚ませ! 迷える子羊達よ
無償の愛なんて呪文、
そんなものやめちまえ!!
「奉仕心」なんて、自分の問題が片付けば
イヤッてほど後から後から出てくるんだから。
「もやっ」とした思いは、汚い悪い物なんかじゃない。
我欲だとかネガティブだとか、
勘違いスピの綺麗事に脅迫されて、
一方的に悪いレッテルを貼ってるだけだ。
それはただ、片付いていないだけ。仕事が終わってないだけ。
ごちゃごちゃしてるから乱雑に汚く見えるだけだ。
片づけてみればいい。
そしたらなんでもやっとするのか、
何を不服とし、何を望み、何を変えたいのか、わかるでしょう?
原因が見つかって、自分の望みが見つかれば、
それを解決できるってことだ。
それこそが、自分自身を、人生を大きく変える鍵だ。
ほら、スコップ持って!
ぶつぶつ呪文を唱えてたって、部屋は綺麗にならないよ
掘り起こす財宝は、山ほど埋まってるんだからネッ

「無償の愛」
(大抵、こういうカンジ。→


またはこう(笑 →


でも、私はこの言葉が
大っ嫌いだ。(←笑
「見返りを求めた時点で、それは本当の愛情でも
優しさでも親切でも無い」
→つまり、感謝が欲しいから人を助ける、てのは間違ってますよ、
ていう意味の「無償の愛」は、確かに間違いじゃーないよね

でも、今のスピリチュアル界では、
「無償の愛」と言う言葉は、呪文と化している。
ここぞという時(つまり、自分に不満が生じたとき)に限って、
「無償の愛」を持ち出さなければいけないと思っている。
なんで私が?と思ったり。
反論や、割り切れないもやっとした思いを
ぐっとこらえて飲み込み、
皆、我慢して、自分にこう言い聞かせている。
「いや、ここは無償の愛だ、無償の愛」(←大抵2回だ
そうして、何の得にもならない人の厄介事を引き受けたり、
不当な扱いに甘んじたりしている。
でもそれって、「無償」か?( ̄- ̄?
「無償」とは、「償い(つぐない)を要求しない愛」だよね。
でも、こうやって自分の口を塞ぎ、
自分をねじ伏せていることは、
「自分の本音を犠牲にしている」から「有償」では?
何か自分の中に抵抗があるのに
「いや、相手を許さなければ(やってあげなければ)」と
自分に「課した」時点で、それはもう「無償」じゃなくなってるのに。
自分の心を償いにして、自分を犠牲にしてまで、
あなたは一体、何を相手に捧げようとしているのか
もしかしたら、気の遠くなるような我慢と忍耐の果てに、
「無償の愛」の境地に辿り着くかもしれない。
(肉親の介護とかでよくありますよね)
そして、人によっては、努力しなくても、
元々そういう性格の人だって
世の中には沢山いるだろう。
でも、「無償の愛だ」と念じたその瞬間、
あなたに「義務」や「苦しさ」が生じるなら。
「何故」それが自分から湧きあがっているのかを
検証してみる絶好のチャンスだと私は思う。
だって、そこに抵抗があるってことは、
そこには解決していない何かが存在するてことだ。
それは何?
その解決していないことこそが、
自分自身や、他者との人間関係で
自分が煮詰まっている一番の大きな理由なんじゃないの?
嫌だな、と思ったり、なんで私が?て思ったり。
それって、我儘なの? 全部自分勝手なの?
そこに妥当な理由があることだってあるでしょう?
だからみんな、もやっとするんじゃないの?
「無償の愛」をやった人や、その言葉に抵抗がある人は
ほとんど、心の中に
「なんで私ばっかり(犠牲にならなきゃいけないんだ)」
て言葉があるはずだ。
でもそれを
「不満が出るのは自分の未熟さだ。自分本位の考え方だ。」
と片づけてしまう。
なぜ。
私は、人間っていう生き物は
性悪説より性善説の方を支持するけど、
でも同時に「本来は利己的なもの」だと思ってる。
自分を愛して欲しいとか、
自分の望みを叶えて欲しいとか、
ラクをしたいとか、助けて欲しいとか、
そんなものは、誰もが当たり前に持っている欲望で、
それこそが、人間の可愛らしいところじゃないの?
ちっぽけな愛すべき、愛おしい存在だっていう証じゃない?
誰かに自分の事をわかってほしい、認めて欲しい、
そんな私達の気持ちは、
この世に生まれた瞬間から
生存本能と同じように持ってるものだ。
利己的になるのは、限りある命を守って
生きていくための自己防衛反応と同じだ。
それが満たされないのを我慢し続ける必要がどこにある。
確かに世の中には、「あまりに自分本位だ」と
見ているだけでうんざりする人もいる。
でも、そんな人への嫌悪感のせいで、
自分の「そう思うのは妥当な感情」まで全否定している。
みんな極端へ走り過ぎてると思いませんか

嫌なことは嫌なんだから、仕方ないじゃない。
そんな人間として当ったり前の感情を「悪いものだ」と決めつけて、
ダメ押しに「そんな自分は我儘で利己的だから
抑えて、代わりに人に尽くしなさい」
と上から蓋をして「強制」するのはおかしいのでは?
この場合、
自分の感情と、相手に尽くす奉仕の心は、別物だ。
混ぜたらイカン。


「嫌だな」
「なんでいつも私ばっかり」
「与えてばかりはもう疲れた」
そう思うなら、何故、そう思うのか。
それを解決するには、どうしたらいいのか。
じゃぁ、何があれば満たされるのか。
それを得る為に、具体的に行動に移したことはあるのかい?
我慢の一言で片づける前にやることは山ほどあるだろうに。
消毒する前にバンドエイドを貼ったらダメって、言うじゃない。
「無償の愛」の呪文は、
自分の傷を手当てせず上から蓋をして、
中でどんなに膿んでも痛んでも
更に上からバンドエイドを強固に重ね貼りしているのと同じ。
手当をしないまま上を塗り固めたおかげで、
傷は膿む一方だ。
見ないフリ、根本解決をしない状態を重ねることで
真実は歪み、状態は悪化し、混乱する。
だったら、蓋をして化膿させるより、
最初からさっさと蓋を開けて風通しをよくした方が
痛みも小さくて治りも早いんじゃぁ?

もやっとしたものは、段々大きくなるし、
我慢をしたことは、必ず後で爆発する。
我慢で塗り固めてグラグラしている埋立地の上に
どんな頑健なお城を築いたって
崩壊するのは目に見えている。
だったら最初から、基礎工事をしっかりやる方が建設的じゃない?

大体さぁ~~~ 何かに苦しんでるからこそみんな、
スピに辿り着くんでしょーーーーー?
それを解決する前に
なんで別の強制労働を自分に課してんの?
目を覚ませ! 迷える子羊達よ

無償の愛なんて呪文、
そんなものやめちまえ!!

「奉仕心」なんて、自分の問題が片付けば
イヤッてほど後から後から出てくるんだから。
「もやっ」とした思いは、汚い悪い物なんかじゃない。
我欲だとかネガティブだとか、
勘違いスピの綺麗事に脅迫されて、
一方的に悪いレッテルを貼ってるだけだ。
それはただ、片付いていないだけ。仕事が終わってないだけ。
ごちゃごちゃしてるから乱雑に汚く見えるだけだ。
片づけてみればいい。
そしたらなんでもやっとするのか、
何を不服とし、何を望み、何を変えたいのか、わかるでしょう?

原因が見つかって、自分の望みが見つかれば、
それを解決できるってことだ。
それこそが、自分自身を、人生を大きく変える鍵だ。
ほら、スコップ持って!
ぶつぶつ呪文を唱えてたって、部屋は綺麗にならないよ

掘り起こす財宝は、山ほど埋まってるんだからネッ


スポンサーサイト
| HOME |