CMで無表情のアナウンサーが並んで
「ひとつになろう」と聞くたびに
「なんだかなーー
」
と思ってしまうのは
やっぱりひねくれてるのかな、と思ってしまう今日この頃の私
(まぁ、あの人達も仕事だしね・・・みんな顔が困惑しているし
)
昔、父を亡くしたとき。
まぁ、私もテンパってたんですよね、きっと。
葬式の前後で、会ったことも無い親戚から口々に
「お母さんを支えてあげてね」とかなんか色々言われて、
自分はまだ学校も卒業していなかったガキンチョで、
足りない脳みそで、自分や人、家族に対して
「こうしなきゃ」「ああしなきゃ」と
理屈ばっかりこねまわして。
(で、子供だから、その理屈が今思えば
完っ全にズレていたんだが
いっや~・・残念・・・
)
友達と電話しても不満はたまるばかり、
相手の言動に嫌な思いばかりして、でもそれを相手にも言えず。
(言えば良かったんだよね、今となっては。
「あなたがこう言って、私は嫌だった、こう思った」と。
それを学ぶのにその後15年かかっちゃったよ ( ̄- ̄; )
当時は心療内科なんてなかったから、
パニック発作とか過呼吸とか、そんな言葉も世の中には
あふれていなくて。
なんだかわからないけど、毎日どこかがおかしい。
変だ変だと思いながらもそれがどんどんひどくなってきて、
過呼吸でゼイゼイやりながら、
「このまま死ぬかも」と本気で(←笑)思いながら
布団にくるまって、電話をずっと睨んだまま毎晩、朝まで過ごしたり。
(救急車を呼ぼうか→でも周りに迷惑がかかる→どうしよう→でも死ぬ、と、
明らかにおかしいループに入ってたんですよ
隣の部屋に家族が寝ているのにさ。)
で、鬱になったんですけど(笑
本当に大変だったのは鬱になってからだったんだけど、
もう何がなんだかのループで
毎日出口がわからなくてもがいていたある日。
1人でお風呂に入っていて、気づいた。
あぁ、私はただ、パパが死んでしまって、
悲しかっただけなんだ、と。
悲しい、たったそれだけのシンプルなことなのに、
なんで余計なことで大騒ぎしてたんだろう。
頭のなかで、自分に対して、人に対して、
世の中に対して、常識(←これが意味がワカランが・笑)に対して、
こうすべき、ああすべき、
ああだこうだと主義主張を繰り返し、
頭の中だけで完全に暴走して
結局、自家中毒でこんな状態にまでなって、
一番避けるべきだった家族に心配と迷惑をかけて。
でも、頭の中で考えていた全ては、
本当はそんなことどうでもよくて、
ただ、悲しいってそれだけでよかったのに、
なんでそれに気づかなかったんだろう、と
「悲しい」は真っ白だな、と思った。
他に何もない。
テレビやニュースを見るときの「ヤダ~!」とは違って。
ただ、悲しい。
感じることも、主張も、意見も、
本当に何もかも、何も出てこなくて、ただ、全てが白かった。
ぽとぽと落ちる涙だけが心地よかった。
そして、今がお風呂で良かった、
今この瞬間に、たった1人でいられるから、と思った。
その後もなんじゃかんじゃやった後に、
めでたく鬱は治ったんだけど。
まぁ、人生長くやっていると、
相変わらず1人で大騒ぎして泣いてわめいて、
時には あぁ~またゴハンが食べられない~とかやって
がぶがぶ薬飲んだり(←大笑) してて。
それでも一生懸命やり過ごし、乗り越え、
すったもんだして、「自分頑張った」て自分を褒めたりして(笑
それでも時には、本当に本当に
絶望的になってしまうこともあって。
子供の頃のように誰かにアピールするためではなく、
声が勝手に出てくるほど泣くってのは、
自分のすさまじい感情を絞り出しているようなもんで
うわぁ、30過ぎてんのに泣く時声が出ることがあるんだ、と思ったり。
泣いてるときには、
もうこりごりだ、
もうウンザリだ、
こんなに努力してるのに、
これ以上何をしろっていうの。
誰か助けて、お願い誰か助けて、
もうこれ以上は無理。
て、頭の中で叫んでるんだけど。
泣きつくして、涙ももう枯れ果てて、疲れ果てて、
床にあおむけになっているか、どっかに座り込んでいるか、
放心してぼんやり何もない空(くう)を見ているとき。
「絶望」ってのは空虚だなと思った。
よく、胸にぽっかり穴があくとか言うけど、
「ぽっかり」て言葉、なんだかメルヘンチックじゃない?
そんなもんじゃない。
自分も世界も、ガランとからっぽだ。
「すさまじい」という言葉って、
普通の会話で普通に使うこともあるけど、
実は段違いに強さが違う言葉だと思う。
(「生命はすさまじい美しさ」っていう使われ方するときあるよね)
すさまじいって、動詞の「荒(すさ)む」ていう言葉の形容詞化なんですよね。
凄まじい、つまり、荒廃感とか、荒れ果てて何も無い、
まさに嵐の後、全てがガレキ。
「悲しい」のときは、ほんの一瞬の甘さがあった。
悲しいに浸ることが心地が良かった。
でも、今は、
自分も世界も、何もかもががらんどうで、
音すらない。
凄まじく、荒廃した空間。
絶望って言葉はこういう状態なのか、と思った。
そんな状態で、しばらく動けないでいても。
それでも、思うのだ。
それでも、生きていかなきゃいけない、と。
絶望の崖の底に落ちていても、
何も無くて、光も助けも希望もなくて。
それでも知っている。
それでも立ちあがるしかないのだ、と。
「頑張んなきゃ
」じゃないんだよね~。
仕方ないっていうか・・・
諦めっていうか、
そこは何があっても、絶対変わらない不変の規制っていうか。
自分以外からの、決められた絶対の規制に仕方なく。
そのときは、
自分以外の誰もいない。
誰かの助けとか。
優しい手とか、言葉とか。
大丈夫、なんとかなるよと
その場限りでもいいからすがる言葉が欲しいとか。
そんなもの、本当に何もない。
暖かさとか優しさとか労りとか、
そんなものは何にもない。世界にはガレキしかない。
でも自分も、何も必要としていない。
だってホラ、自分以外はもう何も残ってない。
だから、最後の最後は結局、
自分以外に自分をなんとか出来る人はいない。
つくづくわかってるから、
だったら自分で立ちあがるしかない。
絶望の淵から立ちあがるときは、たった1人。
それでも、人間は立ちあがる。
そんなことできるのは強い人だけでしょう、と思うでしょうか?
いいえ、誰でも。(←おっ ここはCMのパクリだな・笑
人は死なない。
どんなに辛くても、立ちあがる。
どんなに「そんなの私には無理」と思う人でも。
だって、究極の絶望に落ちた後は、
もう立ちあがるしか道は残っていないんだから。
ね。
「ひとつになろう」と聞くたびに
「なんだかなーー

と思ってしまうのは
やっぱりひねくれてるのかな、と思ってしまう今日この頃の私
(まぁ、あの人達も仕事だしね・・・みんな顔が困惑しているし

昔、父を亡くしたとき。
まぁ、私もテンパってたんですよね、きっと。
葬式の前後で、会ったことも無い親戚から口々に
「お母さんを支えてあげてね」とかなんか色々言われて、
自分はまだ学校も卒業していなかったガキンチョで、
足りない脳みそで、自分や人、家族に対して
「こうしなきゃ」「ああしなきゃ」と
理屈ばっかりこねまわして。
(で、子供だから、その理屈が今思えば
完っ全にズレていたんだが


友達と電話しても不満はたまるばかり、
相手の言動に嫌な思いばかりして、でもそれを相手にも言えず。
(言えば良かったんだよね、今となっては。
「あなたがこう言って、私は嫌だった、こう思った」と。
それを学ぶのにその後15年かかっちゃったよ ( ̄- ̄; )
当時は心療内科なんてなかったから、
パニック発作とか過呼吸とか、そんな言葉も世の中には
あふれていなくて。
なんだかわからないけど、毎日どこかがおかしい。
変だ変だと思いながらもそれがどんどんひどくなってきて、
過呼吸でゼイゼイやりながら、
「このまま死ぬかも」と本気で(←笑)思いながら
布団にくるまって、電話をずっと睨んだまま毎晩、朝まで過ごしたり。
(救急車を呼ぼうか→でも周りに迷惑がかかる→どうしよう→でも死ぬ、と、
明らかにおかしいループに入ってたんですよ

隣の部屋に家族が寝ているのにさ。)
で、鬱になったんですけど(笑
本当に大変だったのは鬱になってからだったんだけど、
もう何がなんだかのループで
毎日出口がわからなくてもがいていたある日。
1人でお風呂に入っていて、気づいた。
あぁ、私はただ、パパが死んでしまって、
悲しかっただけなんだ、と。
悲しい、たったそれだけのシンプルなことなのに、
なんで余計なことで大騒ぎしてたんだろう。
頭のなかで、自分に対して、人に対して、
世の中に対して、常識(←これが意味がワカランが・笑)に対して、
こうすべき、ああすべき、
ああだこうだと主義主張を繰り返し、
頭の中だけで完全に暴走して
結局、自家中毒でこんな状態にまでなって、
一番避けるべきだった家族に心配と迷惑をかけて。
でも、頭の中で考えていた全ては、
本当はそんなことどうでもよくて、
ただ、悲しいってそれだけでよかったのに、
なんでそれに気づかなかったんだろう、と
「悲しい」は真っ白だな、と思った。
他に何もない。
テレビやニュースを見るときの「ヤダ~!」とは違って。
ただ、悲しい。
感じることも、主張も、意見も、
本当に何もかも、何も出てこなくて、ただ、全てが白かった。
ぽとぽと落ちる涙だけが心地よかった。
そして、今がお風呂で良かった、
今この瞬間に、たった1人でいられるから、と思った。
その後もなんじゃかんじゃやった後に、
めでたく鬱は治ったんだけど。

まぁ、人生長くやっていると、
相変わらず1人で大騒ぎして泣いてわめいて、
時には あぁ~またゴハンが食べられない~とかやって
がぶがぶ薬飲んだり(←大笑) してて。
それでも一生懸命やり過ごし、乗り越え、
すったもんだして、「自分頑張った」て自分を褒めたりして(笑
それでも時には、本当に本当に
絶望的になってしまうこともあって。
子供の頃のように誰かにアピールするためではなく、
声が勝手に出てくるほど泣くってのは、
自分のすさまじい感情を絞り出しているようなもんで
うわぁ、30過ぎてんのに泣く時声が出ることがあるんだ、と思ったり。
泣いてるときには、
もうこりごりだ、
もうウンザリだ、
こんなに努力してるのに、
これ以上何をしろっていうの。
誰か助けて、お願い誰か助けて、
もうこれ以上は無理。
て、頭の中で叫んでるんだけど。
泣きつくして、涙ももう枯れ果てて、疲れ果てて、
床にあおむけになっているか、どっかに座り込んでいるか、
放心してぼんやり何もない空(くう)を見ているとき。
「絶望」ってのは空虚だなと思った。
よく、胸にぽっかり穴があくとか言うけど、
「ぽっかり」て言葉、なんだかメルヘンチックじゃない?

そんなもんじゃない。
自分も世界も、ガランとからっぽだ。
「すさまじい」という言葉って、
普通の会話で普通に使うこともあるけど、
実は段違いに強さが違う言葉だと思う。
(「生命はすさまじい美しさ」っていう使われ方するときあるよね)
すさまじいって、動詞の「荒(すさ)む」ていう言葉の形容詞化なんですよね。
凄まじい、つまり、荒廃感とか、荒れ果てて何も無い、
まさに嵐の後、全てがガレキ。
「悲しい」のときは、ほんの一瞬の甘さがあった。
悲しいに浸ることが心地が良かった。
でも、今は、
自分も世界も、何もかもががらんどうで、
音すらない。
凄まじく、荒廃した空間。
絶望って言葉はこういう状態なのか、と思った。
そんな状態で、しばらく動けないでいても。
それでも、思うのだ。
それでも、生きていかなきゃいけない、と。
絶望の崖の底に落ちていても、
何も無くて、光も助けも希望もなくて。
それでも知っている。
それでも立ちあがるしかないのだ、と。
「頑張んなきゃ

仕方ないっていうか・・・
諦めっていうか、
そこは何があっても、絶対変わらない不変の規制っていうか。
自分以外からの、決められた絶対の規制に仕方なく。
そのときは、
自分以外の誰もいない。
誰かの助けとか。
優しい手とか、言葉とか。
大丈夫、なんとかなるよと
その場限りでもいいからすがる言葉が欲しいとか。
そんなもの、本当に何もない。
暖かさとか優しさとか労りとか、
そんなものは何にもない。世界にはガレキしかない。
でも自分も、何も必要としていない。
だってホラ、自分以外はもう何も残ってない。
だから、最後の最後は結局、
自分以外に自分をなんとか出来る人はいない。
つくづくわかってるから、
だったら自分で立ちあがるしかない。
絶望の淵から立ちあがるときは、たった1人。
それでも、人間は立ちあがる。
そんなことできるのは強い人だけでしょう、と思うでしょうか?

いいえ、誰でも。(←おっ ここはCMのパクリだな・笑
人は死なない。
どんなに辛くても、立ちあがる。
どんなに「そんなの私には無理」と思う人でも。
だって、究極の絶望に落ちた後は、
もう立ちあがるしか道は残っていないんだから。
ね。

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