さて、「足る事を知る」の続きです。
リコネ後の人生は、めまぐるしく色んなことが進むので、
自分で望めば望むだけ、変化も成長も
わんこそばのよーに次から次へと目の前につきだされていきます。
私の場合は、常に「これをこうしたい」とか、
「これを実現させるにはどうすればいいのか」とか
山ほど試し続けているので
だからこそ余計にベルトコンベアーでわんこそばが
どんどこ運ばれてきているのだと思います。
で、この1カ月位の私は、
「足る事を知る」ことを学んでいたように思います。
でも、それは「有るものに感謝をして無い物を諦めろ」
という意味ではなくて。
ここしばらく、仕事のことで、自分の中では
「Aを手に入れる為にはBを手に入れなければ」と
思うことがあり、Bを達成することに必死になっていたのですが、
さて終わってみたら
Bは手に入ってないけど、Aはちゃんとクリアー。
でも、相変わらず頭は、Bを手に入れることに必死。
あれっ?(--;
なんかおかしくないか??
Bを手に入れることに気を取られ、
本来の目的のAが手に入っているのに、
「Bが手に入らない」と、どっぷり落ち込んでいるんです。
経過に気を取られて、結果を忘れているんですよ。
私が最初に欲しかったのはどっち?
A? それともB?
で、こういうのって、実は人生に多いんじゃないかなと。。。
例えば。
欲しいブランドバックがあるからお金が欲しい、
と思っていたりする。
でも、実は意外に皆、欲しいバックはちゃんと
手に入れてるんですよね。
クローゼットを見てみたら、そこには
かつて自分が「欲しい」と思って、買ったカバンが置いてあるハズ。
でも、私達はそれを忘れて、いつも願っているわけですよ。
「欲しい物があるのにお金が無い、だからお金が欲しい」
「私は欲しい物をいつも我慢している」
でも、改めて家の中をぐるっと眺めてみれば。
そこに置いてあるものは全て、
過去に「自分が欲しくて買ったもの」のハズ。
だったら、自分の人生は「欲しい物が買えない人生」
じゃぁないわけですよね。
なのになぜみんな、
「欲しい物が手に入らない」
「手に入る人生を送りたい」
と思うんでしょう。
「お金が欲しい・お金が足りない」という強烈な思いに
ずっと捕らわれていて、頭は常にそこへ戻ってしまう。
今、お財布からお金を払って手に入れた
食べたいから買ったスウィーツ、欲しくて買った洋服のことは
手に入れた瞬間に忘れてしまうんですよね。
で、「欲しい物を買えずに我慢をしている自分」に戻る。
「自分が欲しい物」(=A)は
なんのかんの言いながら、「ちゃんと」手に入っているのに、
それを忘れて、覚えているのは「お金が無いから」=「欲しい物が買えない」。
だから、「お金が欲しい」(=B)
いやいやちょっと待って、Aを手に入れたこと、忘れてない???
わかりやすい例えでお金を出しましたが、
他にも例は沢山あります。
家族を幸せにするために残業に精を出す
日本のお父さんが、家庭を省みないという理由で離婚とか。
彼氏が欲しくて出会いを作ろうとしてるのに、
飲み会を作ることを目標にしていて
結局肝心の彼氏がいつまでもできないとか。
何でも話せる友達が欲しくて交友関係を広げても、
結局誰にも自分の悩みを打ち明けられないとか
いわゆる本末転倒ってやつですね。
自分が欲しくて、でも手に入っていないものって何?
そう思って考えてみたときに、
それは果たして、本当に手に入っていないんだろうか、て思ったんです。
私達が一番最初に願った、
または一番根本にある自分の望みって、一体何だったろう?
それを手にいれるための「手段」として考えついたモノを
手に入れようと皆必死に毎日頑張ってるけど、
ふと、立ち止まって振り返ってみて、
一番根本にある「自分の望み」が今、どうなっているか
ちゃんと検証したことってあるんだろうか、と。
本当に叶っていないのか?
それとも、既に持っているのに気づいていないのか?
今必死に取り組んでいる自分の努力は、
本当に「自分の望み」を手に入れる為?(A)
それとも、「手段」を手に入れる為?(B)
「足る事を知る」とは、
無い物を諦めてある物で満足しろという意味ではなく、
無いと思ってるものは本当に無いのか、
そして、自分が欲しいと願ったものは
実はちゃんと叶っているんだと、
気づくための言葉なのかもしれません。
で、やっぱり、この言葉は「だからその他のことは我慢しろ」て
結論では終わりません。
「欲しい物はちゃんと叶っていた」と気づくことができるなら、
今度は「本当に今、無い物」も、ちゃんと手に入るんだと
わかると思いませんか?
だって、
今までも、自分が欲しかったものは手に入っているんだから。
そして、それを手に入れる為に今、やっている努力は
的を得ている努力だろうか?
手段に気を取られて、的がズレてきていないだろうか?( ̄-  ̄?
特に、リコネを受けた後の人なら、
「これなんとかして、ヨロチクー 人(°-°
」
とやっとけば、色んなものが着実に手に入って(改善・成長して)いく。
(リコネ受けて無くても願いは叶いますよ。
でも、速度とワザの規模が段違いなだけです)
「願いは叶えてくれるんだ」て身を持って体験できるし、
その速度はリコネ前とは比べ物にならない。
確実に「困ってることを改善するための手段を教えてくれる」環境にいるのに、
それに気づかず「願いは叶わない」「願いを持ってはいけない」と
思いこんでいないでしょうか?
または、リクエストするものを間違えて(=AではなくB)いませんか?
「足る事を知って、後は諦めなさい」
で終わってたら、人生棒に振っちゃうようなもの。
自分が一体、何を望んでいるのか、考えて、リクエストして、
それでもうまくいかないなら、更にもう一歩踏みこんで
考えてみてはいかがでしょう。
今、欲しいと思っているものは、どうしてそれが欲しいんだろう?
実はその下に本当の願いが隠れていないだろうか?
欲しいと思っているものは、
実は本当に欲しいものを埋める為の代替えではないだろうか?
代替えをどれだけ手にいれても、
「本当に欲しい物」の代わりにはならない。
だったら、最初から「本当に欲しい物」を得る努力をしないといけないよね。。。
自分が、人生に本当に欲しかったものは一体、何だったんだろう。
果たして自分は、本当に欲しいものを手に入れるための努力をしているだろうか?
あなたは今、「本当に欲しい物」に取り組んでいますか?

リコネ後の人生は、めまぐるしく色んなことが進むので、
自分で望めば望むだけ、変化も成長も
わんこそばのよーに次から次へと目の前につきだされていきます。
私の場合は、常に「これをこうしたい」とか、
「これを実現させるにはどうすればいいのか」とか
山ほど試し続けているので
だからこそ余計にベルトコンベアーでわんこそばが
どんどこ運ばれてきているのだと思います。

で、この1カ月位の私は、
「足る事を知る」ことを学んでいたように思います。
でも、それは「有るものに感謝をして無い物を諦めろ」
という意味ではなくて。
ここしばらく、仕事のことで、自分の中では
「Aを手に入れる為にはBを手に入れなければ」と
思うことがあり、Bを達成することに必死になっていたのですが、
さて終わってみたら
Bは手に入ってないけど、Aはちゃんとクリアー。
でも、相変わらず頭は、Bを手に入れることに必死。
あれっ?(--;
なんかおかしくないか??

Bを手に入れることに気を取られ、
本来の目的のAが手に入っているのに、
「Bが手に入らない」と、どっぷり落ち込んでいるんです。
経過に気を取られて、結果を忘れているんですよ。
私が最初に欲しかったのはどっち?
A? それともB?
で、こういうのって、実は人生に多いんじゃないかなと。。。

例えば。
欲しいブランドバックがあるからお金が欲しい、
と思っていたりする。
でも、実は意外に皆、欲しいバックはちゃんと
手に入れてるんですよね。
クローゼットを見てみたら、そこには
かつて自分が「欲しい」と思って、買ったカバンが置いてあるハズ。
でも、私達はそれを忘れて、いつも願っているわけですよ。
「欲しい物があるのにお金が無い、だからお金が欲しい」
「私は欲しい物をいつも我慢している」
でも、改めて家の中をぐるっと眺めてみれば。
そこに置いてあるものは全て、
過去に「自分が欲しくて買ったもの」のハズ。
だったら、自分の人生は「欲しい物が買えない人生」
じゃぁないわけですよね。
なのになぜみんな、
「欲しい物が手に入らない」
「手に入る人生を送りたい」
と思うんでしょう。
「お金が欲しい・お金が足りない」という強烈な思いに
ずっと捕らわれていて、頭は常にそこへ戻ってしまう。
今、お財布からお金を払って手に入れた
食べたいから買ったスウィーツ、欲しくて買った洋服のことは
手に入れた瞬間に忘れてしまうんですよね。
で、「欲しい物を買えずに我慢をしている自分」に戻る。
「自分が欲しい物」(=A)は
なんのかんの言いながら、「ちゃんと」手に入っているのに、
それを忘れて、覚えているのは「お金が無いから」=「欲しい物が買えない」。
だから、「お金が欲しい」(=B)
いやいやちょっと待って、Aを手に入れたこと、忘れてない???
わかりやすい例えでお金を出しましたが、
他にも例は沢山あります。
家族を幸せにするために残業に精を出す
日本のお父さんが、家庭を省みないという理由で離婚とか。
彼氏が欲しくて出会いを作ろうとしてるのに、
飲み会を作ることを目標にしていて
結局肝心の彼氏がいつまでもできないとか。
何でも話せる友達が欲しくて交友関係を広げても、
結局誰にも自分の悩みを打ち明けられないとか

いわゆる本末転倒ってやつですね。
自分が欲しくて、でも手に入っていないものって何?
そう思って考えてみたときに、
それは果たして、本当に手に入っていないんだろうか、て思ったんです。
私達が一番最初に願った、
または一番根本にある自分の望みって、一体何だったろう?
それを手にいれるための「手段」として考えついたモノを
手に入れようと皆必死に毎日頑張ってるけど、
ふと、立ち止まって振り返ってみて、
一番根本にある「自分の望み」が今、どうなっているか
ちゃんと検証したことってあるんだろうか、と。
本当に叶っていないのか?
それとも、既に持っているのに気づいていないのか?
今必死に取り組んでいる自分の努力は、
本当に「自分の望み」を手に入れる為?(A)
それとも、「手段」を手に入れる為?(B)
「足る事を知る」とは、
無い物を諦めてある物で満足しろという意味ではなく、
無いと思ってるものは本当に無いのか、
そして、自分が欲しいと願ったものは
実はちゃんと叶っているんだと、
気づくための言葉なのかもしれません。
で、やっぱり、この言葉は「だからその他のことは我慢しろ」て
結論では終わりません。
「欲しい物はちゃんと叶っていた」と気づくことができるなら、
今度は「本当に今、無い物」も、ちゃんと手に入るんだと
わかると思いませんか?
だって、
今までも、自分が欲しかったものは手に入っているんだから。
そして、それを手に入れる為に今、やっている努力は
的を得ている努力だろうか?
手段に気を取られて、的がズレてきていないだろうか?( ̄-  ̄?
特に、リコネを受けた後の人なら、
「これなんとかして、ヨロチクー 人(°-°

とやっとけば、色んなものが着実に手に入って(改善・成長して)いく。
(リコネ受けて無くても願いは叶いますよ。

でも、速度とワザの規模が段違いなだけです)
「願いは叶えてくれるんだ」て身を持って体験できるし、
その速度はリコネ前とは比べ物にならない。
確実に「困ってることを改善するための手段を教えてくれる」環境にいるのに、
それに気づかず「願いは叶わない」「願いを持ってはいけない」と
思いこんでいないでしょうか?
または、リクエストするものを間違えて(=AではなくB)いませんか?
「足る事を知って、後は諦めなさい」
で終わってたら、人生棒に振っちゃうようなもの。
自分が一体、何を望んでいるのか、考えて、リクエストして、
それでもうまくいかないなら、更にもう一歩踏みこんで
考えてみてはいかがでしょう。
今、欲しいと思っているものは、どうしてそれが欲しいんだろう?
実はその下に本当の願いが隠れていないだろうか?
欲しいと思っているものは、
実は本当に欲しいものを埋める為の代替えではないだろうか?
代替えをどれだけ手にいれても、
「本当に欲しい物」の代わりにはならない。
だったら、最初から「本当に欲しい物」を得る努力をしないといけないよね。。。
自分が、人生に本当に欲しかったものは一体、何だったんだろう。
果たして自分は、本当に欲しいものを手に入れるための努力をしているだろうか?
あなたは今、「本当に欲しい物」に取り組んでいますか?

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