だいぶ前に、ネットにタモリさんの
名言集みたいな記事が載ってまして
その中で、そうそう!と思ったのがコレ。
独善とは善意の服を着てやってきて、
嫉妬はいつも正義の服を着てやってくる
実はコレ、私も1年くらい前から
似たようなネタでコラムに書きたかったんですが
収集がつかなくてどーにも書ききれなかった内の一つ。
うーん、さすがタモさんだ・・

たった一行でうまいこと言うわぁ~。
私が書きたかった話は後半部分。
「嫉妬はいつも正義の服を着てやってくる」
例えばですね。
人の行為や立ち居振る舞い、言動に対して
「あの人は甘えてる」
「そのやり方はズルイ」
「そんなことはすべきでない」
的なことを、
「声高に」主張しているとき。
内容は確かに正義だったりする。それは間違いない。
でも、「声高に」主張しているときには、
そこに「少しの怒り」が感じられることが
多々あったりします。
主張に「怒り」が含まれいてる場合は、
本人は正義を主張しているつもりでいても、
実は、ちょいとその相手に嫉妬してるワケで。。。
かといって、
「あーー その人に嫉妬してるんですネッ
」
な~んて言おうものなら逆鱗に触れちゃうから言っちゃダメですよ(笑 ^^;
なぜなら、その感情は一見「嫉妬」とはかけ離れているから。
なので、まずは「嫉妬」ではなく
本人の言動に見え隠れしている
「怒り」の方に先に注目してみると。
怒りってのは、
「感情、行動、欲求が阻まれて、鬱屈した」状態。
火山のマグマに例えるなら、
火山活動自体は本来、地球の自然な現象。
ただ、湧きあがってくるものが上で蓋をされて、
押し込められて圧力がかかる。
だから噴火という形で爆発する。
それと同じで、人間の感情も、
何かの理由でネガティブに阻害されると
ぎゅっと圧力がかかるから、
怒りという強い感情に「変化」するんですよね。
(この辺のネタをHPのコラム「怒りの正体」に書いてあるんで、
もし興味があったらそっちもドゾー
)
つまり、
やりたいのに「ダメ」って言われたり
やりたくないのに我慢してやってたり、
自分が踏みにじられる(=大切なものを奪われる、汚される)、
そういう状況が続いたり、大きくなると
「本来の自然な自分を否定したり、
押し込めたりするから
その結果、自分の思いが怒りに変化」するわけです。
でっ
例えば誰かを見て、
「そんな振舞いは許せない」
と思ったりする。
その「許せない」が怒りと一緒にあるならば。
自分の欲求を抑え込んでいることになる。
何の欲求か?
「許せない」→「やってはいけないんだから」
つまり、本当は私もそうしたいのだ。
本当はやりたい。でも、できない。
「社会的に宜しくない(または、人に迷惑がかかる)」
または「私にはできない(または、人からそう扱われない)」
というように、それが自分の価値観から見て
「宜しくない」「できない」」要素が含まれていると、
おおっぴらにできなくて、押し込めて蓋をする。
なのにそれを平気でやっている人がいると
見ていて不愉快になる。
「みんな(というか、私は)我慢しているのに」
あなたばっかりズルイ。
だから怒りとともに相手を正義で裁き
自分にとっての正義を相手に押し付けたい。
自分が自分にその正義を押し付けているように。
「そんなことは許されない!(怒」
でもそれは正義じゃなく、嫉妬だ。
「声高に」正義を主張するとき、
それは自分の感情的な怒りを
正義や道徳や、まっとうな平等論で
じょ~~ずにくるんで、一見正論のように仕立て上げている。
だから、あえて辛口トークでいうならば、
それって実はタチが悪い(^^;
だって、自分の鬱屈した怒りの感情を
正義論にすり替えて、相手に投げつけてるワケなので。。
でも、それは本人すら気づいていない。
本人は正しいことを言っていると思っている。
だから強く、相手に叩きつける。
なぜなら、これは正論だ(と思っている)から。
正論なのは、間違っていいないかもしれない。
でもそこに、自分の個人的な感情(=自分の問題)が
混ざってることに気づいてないんですよね。
しかし。
ここからが一番重要で、私が書きたかったことです。
「嫉妬」と言っても、その場合
本当に自分が全く同じことをしたいとは思ってないワケですよ。
寧ろ拒絶している。「そんなこと絶対やりたくない」と。
その人と同じことをしたいワケじゃない。
その人に憧れてるワケじゃない
(↑嫌悪さえしてる人もいるよね)
でも、そこに自分の怒りがあると気づいたのなら、
自分が抑え込んでいるものがあるということ、
それが何かということまで深く掘り下げてみる
いいチャンスになると思うんですよね~
だってこれは、
「羨ましい」ことに重点が置かれているのではなく、
「怒り」になるほど、何を自分が抑え込んでいるのか
が重要なんですから。。。
ズルしたり、不正したり、女を武器にしたり、
甘えて全部人にやらせてラクしたり。
そりゃ全部、正義ではない。
でも、その「やってはいけない」の
制限の程度は果たして妥当なレベルなんだろうか?( ̄- ̄?
あなたが自分に課している正義は
極端すぎるのではないだろうか?
または、
「やってはいけない」んじゃなくて
「自分にはできない(無理だ)」
と思ってるだけなんじゃぁ?
極端な相手を反面教師にして、
自分も極端に潔癖になってるだけなんじゃないの?
やりたかったら、ちょこっとだけやってみたらどう?
誰にダメだって言われてんの? あなたの人生なのに。
腹が立つからといって、相手にぶつけて
一瞬気が済んだといって、それは解決したことにならない。
自分の根本が変わらなければ
何度でもその怒りは発生する。
それって建設的じゃないよね。。。。
それに、「嫉妬にまみれた自分」でキーキー怒ってるって、
けっこーーダサイ(^^; て自分で気づきますよね。
そう思うと、怒りも攻撃性も中和される。
「なんだ、私、嫉妬してるだけなんだ・・・・」
そうなれば、自分がラクになる。
更に。( ←まだある・笑)
嫉妬を正義に変換して主張していたら、
本当に正義の部分ですら、真っ当な扱いをされなくなる。
「あの人、スネてるだけじゃぁーん
」と。
もし、あなたの中に怒りと共に正義の主張が生まれたら。
理由を探ってみたらどうでしょう。
理由が見つかれば、
解決する手立てはいくらだってあるのだから。
名言集みたいな記事が載ってまして

その中で、そうそう!と思ったのがコレ。
独善とは善意の服を着てやってきて、
嫉妬はいつも正義の服を着てやってくる
実はコレ、私も1年くらい前から
似たようなネタでコラムに書きたかったんですが
収集がつかなくてどーにも書ききれなかった内の一つ。
うーん、さすがタモさんだ・・


たった一行でうまいこと言うわぁ~。
私が書きたかった話は後半部分。
「嫉妬はいつも正義の服を着てやってくる」
例えばですね。
人の行為や立ち居振る舞い、言動に対して
「あの人は甘えてる」
「そのやり方はズルイ」
「そんなことはすべきでない」
的なことを、
「声高に」主張しているとき。
内容は確かに正義だったりする。それは間違いない。
でも、「声高に」主張しているときには、
そこに「少しの怒り」が感じられることが
多々あったりします。
主張に「怒り」が含まれいてる場合は、
本人は正義を主張しているつもりでいても、
実は、ちょいとその相手に嫉妬してるワケで。。。
かといって、
「あーー その人に嫉妬してるんですネッ

な~んて言おうものなら逆鱗に触れちゃうから言っちゃダメですよ(笑 ^^;
なぜなら、その感情は一見「嫉妬」とはかけ離れているから。
なので、まずは「嫉妬」ではなく
本人の言動に見え隠れしている
「怒り」の方に先に注目してみると。
怒りってのは、
「感情、行動、欲求が阻まれて、鬱屈した」状態。
火山のマグマに例えるなら、
火山活動自体は本来、地球の自然な現象。
ただ、湧きあがってくるものが上で蓋をされて、
押し込められて圧力がかかる。
だから噴火という形で爆発する。
それと同じで、人間の感情も、
何かの理由でネガティブに阻害されると
ぎゅっと圧力がかかるから、
怒りという強い感情に「変化」するんですよね。
(この辺のネタをHPのコラム「怒りの正体」に書いてあるんで、
もし興味があったらそっちもドゾー

つまり、
やりたいのに「ダメ」って言われたり
やりたくないのに我慢してやってたり、
自分が踏みにじられる(=大切なものを奪われる、汚される)、
そういう状況が続いたり、大きくなると
「本来の自然な自分を否定したり、
押し込めたりするから
その結果、自分の思いが怒りに変化」するわけです。
でっ

例えば誰かを見て、
「そんな振舞いは許せない」
と思ったりする。
その「許せない」が怒りと一緒にあるならば。
自分の欲求を抑え込んでいることになる。
何の欲求か?
「許せない」→「やってはいけないんだから」
つまり、本当は私もそうしたいのだ。
本当はやりたい。でも、できない。
「社会的に宜しくない(または、人に迷惑がかかる)」
または「私にはできない(または、人からそう扱われない)」
というように、それが自分の価値観から見て
「宜しくない」「できない」」要素が含まれていると、
おおっぴらにできなくて、押し込めて蓋をする。
なのにそれを平気でやっている人がいると
見ていて不愉快になる。
「みんな(というか、私は)我慢しているのに」
あなたばっかりズルイ。
だから怒りとともに相手を正義で裁き
自分にとっての正義を相手に押し付けたい。
自分が自分にその正義を押し付けているように。
「そんなことは許されない!(怒」
でもそれは正義じゃなく、嫉妬だ。
「声高に」正義を主張するとき、
それは自分の感情的な怒りを
正義や道徳や、まっとうな平等論で
じょ~~ずにくるんで、一見正論のように仕立て上げている。
だから、あえて辛口トークでいうならば、
それって実はタチが悪い(^^;
だって、自分の鬱屈した怒りの感情を
正義論にすり替えて、相手に投げつけてるワケなので。。
でも、それは本人すら気づいていない。
本人は正しいことを言っていると思っている。
だから強く、相手に叩きつける。
なぜなら、これは正論だ(と思っている)から。
正論なのは、間違っていいないかもしれない。
でもそこに、自分の個人的な感情(=自分の問題)が
混ざってることに気づいてないんですよね。
しかし。
ここからが一番重要で、私が書きたかったことです。
「嫉妬」と言っても、その場合
本当に自分が全く同じことをしたいとは思ってないワケですよ。
寧ろ拒絶している。「そんなこと絶対やりたくない」と。
その人と同じことをしたいワケじゃない。
その人に憧れてるワケじゃない
(↑嫌悪さえしてる人もいるよね)
でも、そこに自分の怒りがあると気づいたのなら、
自分が抑え込んでいるものがあるということ、
それが何かということまで深く掘り下げてみる
いいチャンスになると思うんですよね~

だってこれは、
「羨ましい」ことに重点が置かれているのではなく、
「怒り」になるほど、何を自分が抑え込んでいるのか
が重要なんですから。。。
ズルしたり、不正したり、女を武器にしたり、
甘えて全部人にやらせてラクしたり。
そりゃ全部、正義ではない。
でも、その「やってはいけない」の
制限の程度は果たして妥当なレベルなんだろうか?( ̄- ̄?
あなたが自分に課している正義は
極端すぎるのではないだろうか?
または、
「やってはいけない」んじゃなくて
「自分にはできない(無理だ)」
と思ってるだけなんじゃぁ?

極端な相手を反面教師にして、
自分も極端に潔癖になってるだけなんじゃないの?
やりたかったら、ちょこっとだけやってみたらどう?

誰にダメだって言われてんの? あなたの人生なのに。
腹が立つからといって、相手にぶつけて
一瞬気が済んだといって、それは解決したことにならない。
自分の根本が変わらなければ
何度でもその怒りは発生する。
それって建設的じゃないよね。。。。

それに、「嫉妬にまみれた自分」でキーキー怒ってるって、
けっこーーダサイ(^^; て自分で気づきますよね。
そう思うと、怒りも攻撃性も中和される。
「なんだ、私、嫉妬してるだけなんだ・・・・」
そうなれば、自分がラクになる。
更に。( ←まだある・笑)
嫉妬を正義に変換して主張していたら、
本当に正義の部分ですら、真っ当な扱いをされなくなる。
「あの人、スネてるだけじゃぁーん

もし、あなたの中に怒りと共に正義の主張が生まれたら。
理由を探ってみたらどうでしょう。
理由が見つかれば、
解決する手立てはいくらだってあるのだから。
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